般若心経の迷い道 その二
その二 写経の意味
写経といえば般若心経というくらい人気がある。一時間ちょっと、一息で書けるので毎朝お勤めのようにして書いている方もいるくらいだ。
昭和40年代に、薬師寺の高田好胤が戦国時代の兵火で焼失した金堂の復興を願い、「百万巻写経勧進」という大ボラを吹き、全国行脚し寄付を集め大成功した。それから他の宗派でも盛んに写経を勧めるようになったが、インドにおける写経は意味が違う。
紀元前後に成立した般若経、それに続く法華経では盛んに解説・書写を勧める。当時の識字率は1パーセント以下と思われる。字を読み書きできるのは僧侶、バラモンと官僚くらいのものだ。スートラというのは暗記する綱要だった。
インドではヴェーダも仏説も口承で伝える。伝統的に書き物より、師から弟子へと直接教わることが大切とされる。その中で写経、手書きで書き写すというのはどういう意味があったのだろうか。
歩き回る遊行者
釈尊時代、その教えは歩き回れるマガダ国やコーサラ国、ヴァッジ国、アンガ国、今日のビハール州、ウッタラプラデーシュ州周辺に限られたと思う。釈尊は64の言語に通じていたという。それは、どこへ行ってもその土地の言葉でお説教したという意味だが、実際にはたいていがマガダ語の方言だろう。
山一つ超えると言葉が違ったともいう。ネパール、インドの国境近辺が生活圏なので、ひょっとしたらシナ・チベット語系の言葉も知っていたかもしれない。王宮に出入りする西方からの商人の言葉を覚えたかもしれない。
王族はバラモンと同様の教育を受けたと思われるので、サンスクリット語を学んでいればガンダーラ語も見当が付くだろう。
広大なインドで、釈尊や直接の弟子が南インド、スリランカまで出向いたか、西インドを超えてガンダーラ地方まで説法にでかけたかは疑問だ。弟子を連れての遊行は、おそらく交易路を行った。人のいない所を通れば道に迷うし、食を乞うことができない。昔から盗賊・山賊はいただろうから、安全のため商人の隊列と共に移動して、恵んでくれそうな金持ち、有力者の家を案内してもらっていたに違いない。仏跡というのはそうした交通の要所にある。
ブッダガヤーから南インドの仏跡、ナーガルジュナコンダやアマラーヴァティーの仏塔まで直線距離で1000キロちょっと。新幹線で行く東京門司間とほぼ同じ、東海道五十三次の往復程度。説法しながら歩いたら二月かかるだろう。ガンダーラはさらに遠い。
悟りを開いたブッダガヤーから初転法輪のバナーラス、厳しい修行をする沙門の集う鹿野苑までは200キロちょっと。歩けば一週間。しかし、弁当をもらって出かけるわけではなく、乞食しながらのことだろう。携帯食があったとすればチベットのツァンパのような麦焦がし(サンスクリット語でSAKTU)だ。干し飯のようなもの、煎り米もありうるが、どうなんだろう。
また、ムリガヴァナを鹿野苑と訳すと誤解が生じる。ムリガは鹿というより動物一般を意味する。ヴァナは森。修行者が巣くっている苦行林、仙人堕処は、鹿がえさをもらえる奈良公園のような所ではなくて、ジャッカルや虎、屍鬼、化け物まで出そうな森である。中道を行くなど甘いと釈迦に説法するような修行モンスターが集結している。遊行には水瓶と、もし料理するなら鉄鉢が必要だ。
写経で大乗仏教は広まった
マガダ語方言の話者なら説法を聞いて覚えることが出来るだろう。しかし、西インドの言葉やイラン語の系統、あるいは南インドのドラヴィダ語系の話者だったらどうだろう。ちょっと待ってくれと書き留める必要がある。
分からないまま書き留めて、後で知っている人に聞いて理解する。勉強のためにはノートが必携である。逆にいうと余所の国に仏説を広めようと思ったら書き物が必要になる。紀元前からそういう動きは起きていただろう。カーストに縛られない仏教はユニヴァーサルなので、外国から来た商人たちに歓迎された。
前三世紀、アショーカ王の治世の下、インド各地に説法師、伝道師が派遣され、インドからさらに外にまで活動が及んだ。金銀を授受すべきかどうかなどの問題を巡って、見解の相違から前二世紀頃、釈迦教団に根本分裂が起きる。大衆部が東インドから南インドへ、上座部が西インドから西北インドへ、スリランカへと渡った。さらに、経典や律の解釈の違いにより、教団は二十もの部派に枝分かれしていくことになる。
ガンダーラ地方では紀元前後に書かれた経典の断片が大量に発見されて、近年、その解明が進んでいる。盗掘してあちこちばらばらに売りさばかれていた経文の断片が、インターネットの発達により、各国の資料をお互いにPCで見て突き合わせ、検証できるようになった。
ガンダーラで経典を集積し、それを専門家が写経し、あるいは翻訳してシルクロードから中国へ持ち出したのだろう。日本でも奈良・平安時代は写経生が給料をもらって書き写し、誤字があると給金が差し引かれた。写経はプロの仕事だった。
亜熱帯のインドの仏教はガンダーラで寒冷地仕様に作り直されて輸出された。出家主義、限られたサークルでの少人数限定の教団を、誰でも乗れる開かれた大きな乗り物、大乗仏教に変えた。
アーガマ
釈尊の説法を師から弟子へと言い伝えたのがアーガマである。漢訳では阿含経として残っている。釈尊の説法は速記録があるわけではない。インドではよくテント掛けで辻説法している姿を見る。リズミカルな名調子である。ある意味、観衆にとっては暇つぶしでもあり、歌を歌ったら大道芸だ。釈尊はどんな説法をしたのであろうか。
古い経典の文句を利用して、AIで仮想・釈迦の三分間説法を作れないものか。英語だったらダライ・ラマの声がいい。日本語だったら誰だろう。二枚目の高倉健か、あるいは講談師や落語家の方がいいか。私なら虎造の浪曲でやってほしい。
「利根の川風袂に入れて、月に棹さす高瀬舟…」これは玉川勝太郎『天保水滸伝』だ。いや、ここではガンジス川だろう。
一、二年もすると、そんな真面目だかフェイクだか分からないAI説法がインターネット上に氾濫するだろう。
教説は弟子たちが要点をまとめパーリ語の韻文にして記憶した。インド、スリランカのみならず東南アジアの仏典もパーリ語である。リズムを付け簡単なメロディーで唱えて伝えていった。その言い伝え、言行録がアーガマであり、漢訳されて阿含経と呼ばれた。
いつから書き留められたかは分かっていないが、樺の木の皮に刻まれたものは紀元前一世紀位のものが残っている。アフガニスタンは乾燥した気候なので残った。亜熱帯湿潤のインドで、椰子の葉に刻まれた聖典は二、三百年持てばいい方だ。
釈尊の教えの中心は「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」とまとめられている。
アーガマで繰り返し説いているのは、すべては無常で時と共に移りゆくもの。すべてが無常であり、そこに常住不変の実体、自分が生きているという「われ」、そのうちに潜む不滅の「たましい」はない。常ならぬものに執着するのが苦の原因である。
無常であるというのは、すべては独立して存在するのではなくて、様々な原因が重なり合った因縁により生じる。様々な原因によって作り上げられた「もの・こと」、縁起したものは無常であるから執着してもしょうがない。
色(いろ、かたち、物質的存在)、受(感覚、感受)、想(表象作用)行(意思、意欲)、識(心、思惟)という五蘊に対する執着を滅すれば、人間の存在も薪の火が燃え尽きたように消える。煩悩の吹き消された状態、寂静を悟りの内容とした。
そうしてものごとを正しく見る、正見によって悩みを脱し、心静かな境地に至る。「涅槃寂静」の境地に至るべきだと説く。これが菩提樹下で釈尊が悟ったことと思われる。
有か無か
辺境の地とはいえバラモン社会に生まれた釈尊は、ヴェーダの讃歌やウパニシャッド哲学などの学問を学んだに違いない。
バラモン教ではアートマン(自己の本体)の存在を認め、それを宇宙の本質ブラフマンと合一させるのが理想だ。一般には天に生まれ変わることを望むが、仏教では無我説を唱える。二度と生まれ変わらない、輪廻のチェーンから逃れる解脱を目指す。人生双六の上がりが目標だ。
穏やかな日本では、次に生まれ変わったら○○になると楽しそうに語るが、インドでは日々が厳しい。
何でこんな境遇に生まれたのか。ほとんどの民衆は食うや食わずの生活をして、病気にかかり、死んでいく。若くして死ぬのが当たり前で、老いていけばそれなりに苦しい。生老病死が日常で、四苦八苦している。
王子として生まれたら楽しいかというと、敵国が攻めてきたら戦わないといけない。負傷したり、拉致されたり、下手したら皆殺しの目に遭う。王族も安閑としてられない。現に、釈迦国は滅亡している。
アビダルマの分析哲学
もともと釈尊の教説(ダルマ)を考察するための論書がアビダルマである。我とは何か、存在(ダルマ)とは何かと分析して研究した。ダルマの語は多義的だ。法則とか、道徳・宗教、真理・最高の実在、存在のあり方、要素等々。独自の存在を保持する実体、人間も含めた世界の構成要素、考えられる概念がダルマである。過去及び未来についてのものを考えことができるのはそれが実在しているからだとという。
二十いくつに分かれた部派のうち、説一切有部がその代表で、部派はそれぞれの律、経、論を持つ。
説一切有部といっても、世の中のすべてが存在すると主張したわけではない。
アーガマにおいて、五蘊は無常であり、無我であると説かれた。有部では細かく分析しているうちに、「自我は存在しないが、五蘊は瞬間的存在(刹那滅)として有り、瞬間的存在の背後には恒常な本性が過去現在未来の三世にわたって有る(三世実有)」と認めるようになった。学者たちが理屈で徹底的に詰めているうちにそういう考えに至った。
ここからややこしくなる。くどくどしくなる。インド人の分類癖である。般若心経本文の前提なのでしょうがないから書く。しょうがないというのは、三法印(諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」)とか四諦(苦集滅道)とか五蘊、六波羅蜜、八正道、十二縁起とかいう数あわせが、倫理社会の教科書の暗記物みたいで嫌だからである
五蘊とは、すべてのものが色、受、想、行、識という五の範疇に入るので、五蘊はすべてのものと同義である。色、すなわち物質的存在とそれを認識する心である識の間に生じる心作用を受・想・行に分けた。これをまた、もっと細かく分類する。
アーガマには十二処、十八界というカテゴリーもいわれている。
十二処というのは、六根、すなわち、眼・耳・鼻・舌・身・意という感覚器官に、それを捉える心を加えた眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識という六種の認識器官、六識と色・声・香・味・触・法というそれぞれの器官の対象、六境を数えたものだ。ここでいう法は心で思われるもの。
視覚について考えると、見る心(眼識)が見る感官(眼根)を通して色・形という対象(色境)を捉える。眼耳鼻舌身意それぞれにこの三分法を適用すると以上の十八界になる。般若心経で、これらは、皆、ない 、ない、ないといっている。 いわく、
是故空中無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽
とまことに調子がよろしい。さっぱりする。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論
更新日:2025.12.11